タイトルの文言は、まさに「当たり前」という他ない。だが、これを意識する時間は人生の中で少ない方が良い。
現在、私はこの「当たり前に」苛まれている。今までにも何度もこの意識を持ってきたが、やはりこの感情は私を蝕むことに徹底していると言える。無い方が良いことは確かだ。
Tweet
【概要】
では、なぜ今回生存の苦に直面するに至ったかと言えば、何のことはないただの失恋だ。相手はインターネット上で知り合った人間であり、面識があるわけではない。だが、それを補うには十分すぎるほど気が合い、相愛の時間を味わっていたのである。
結論としては、単純に相手の感情が私から離れたというだけのことだ。しかし、それだけのことでも私を内向的にするには充分である。
このジャンルの苦痛はこれで数度目だが、慣れることなどない。同じ辛苦を受け止める度に、失意の念が増えていくだけだ。そして、その失意は今までの幸福な時間や、叶わなかった将来への期待を対照にする。今回こそは、今までの結論とは違う有意義な未来を迎えるかもしれないと、そう思っていたばかりに己を傷つけていくのだ。
Tweet
【思考】
こうなってしまうと、この失意が私のすべてを支配し始める。他にも安寧で多幸を感じることのできるものがあったとしても、私の思考は絶望を直視することを選択してしまう。
もしこの苦痛を回避できるのだとすれば、それは元から事象を軽く見ている場合に限られるだろう。だが多くの場合において、私を取り巻く事象は私にとって重大である。特に対人間の感情というのは、それだけでポジティブになったりネガティブになったりする。
今回の失恋に於いても、相手は感情的な支えであったし重大であった。他人を愛し、相手からも愛されるという幸福に甘んじて、その心地よいゆりかごを信用していたのだ。どのようなことにでも終わりは訪れるが、その最期は今回も悲痛な代物であった。少なくとも、私はそれを望んでなどいなかったことは確かである。
今思い出すのは、高校生の頃に永遠と己の内面にある地獄と向き合っていたことである。他の記事でも記述したことがあったが、高校生の3年間は鬱蒼とした内面の中に囚われ続けていた。その時に味わった無間地獄と言えるような失望の螺旋階段を、今も歩いている。
そのスパイラルから抜け出すには、環境が強制的に変化することが一番手っ取り早い。しかし、今回の場合は高校生の頃と同様にはいかず、環境の著しい変化は望めない。ネット上の交流で発生した問題であるため、インターネットを主体に活動している限り変化はないのである。
常に、この苦痛を思い出し続けるだろう。過去の苦痛でさえ、癒えた後もその尾を引きずり私の思考にその鱗片を残している。いつでも、その姿を現せるように待っているかのようだ。
それ自体は仕方のないことなのだが、しばらくは己の中に感情の牢獄を強く感じることだろう。解放されることがない、という自覚があるか否かは生存のしやすさに直結している。この世のすべてを自覚することは苦しみを生むのである。
しかし、それに対抗して無感情を徹底しようとすれば、苦痛から解放されたいという切望が主張を強くする。つまり、眼前にある感情から目を逸らす技術を持ち合わせていないのである。
どうしても直面したあらゆるものに対して、全身でぶつかってしまうらしい。意識を逸らそうとするほどに、悲哀の影は濃くなっていく。そして「お前の本心はこれだ」と、その姿を見せつけてくるのである。
これだけの時間を生に費やしても、得られるものの多くは苦痛である。もちろんそれだけとは言わないが、私に強く刻まれる記憶は生き地獄を自覚させるものが多い。
元々生存は地獄であると分かってはいるが、普段からそれを意識し続けていたら身が持たない。だから少しでも幸せを覚えるような感情に傾倒していたいのに、それが私には許されないようだ。
これが「私」という存在に課せられた業だろうか。
Tweet
【結論】
今はこの生存という名の苦痛に囚われる他にない。精々できることと言えば、苦痛に対して鈍感になれるよう願うくらいである。私という存在がある限り、今回生じた感情が潰えることはないだろう。
もし多少でも癒えるのであれば、同じジャンルの幸福を得たときに他ならない。他の幸福では、気を紛らわせることこそできても、穴埋めはできない。他の幸福が山となっても、その空洞は私を貫いて存在し続けるのだ。
できることなら、都合よく記憶を抹消したいなどという無意味な思考さえ働く。私の苦痛は未だ道半ばであり、生を受けたという拷問には終わりが見えない。
生を全うすれば地獄、死の苦痛を帯びるのも地獄。渇望するものは手に入らず、望めば望むほどに否定が私を刺し貫く。
いつ終わるのかと考えることすら苦痛を生み、自己嫌悪と自己憐憫の渦中に引きずり込まれる。私を救う存在などいないのだと自覚しようとすれば、その事実を拒絶したい軟弱さが自分の首を絞める。
潜在的な孤独に耐えうる防壁は未だ築かれず、失意は負の感情を呼び起こし、他にある幸福を覆い隠していく。そして私が真に求める安寧な死は、与えられるかどうかも分からない。
いずれこの感情が風化するときが来るのかすら、現状では想像もつかない。未来に思いを馳せる余裕もなく、今、この瞬間が、苦痛なのである。
ここまで読んでくださったあなたに、心からお礼申し上げます。
現在、私はこの「当たり前に」苛まれている。今までにも何度もこの意識を持ってきたが、やはりこの感情は私を蝕むことに徹底していると言える。無い方が良いことは確かだ。
Tweet

【概要】
では、なぜ今回生存の苦に直面するに至ったかと言えば、何のことはないただの失恋だ。相手はインターネット上で知り合った人間であり、面識があるわけではない。だが、それを補うには十分すぎるほど気が合い、相愛の時間を味わっていたのである。
結論としては、単純に相手の感情が私から離れたというだけのことだ。しかし、それだけのことでも私を内向的にするには充分である。
このジャンルの苦痛はこれで数度目だが、慣れることなどない。同じ辛苦を受け止める度に、失意の念が増えていくだけだ。そして、その失意は今までの幸福な時間や、叶わなかった将来への期待を対照にする。今回こそは、今までの結論とは違う有意義な未来を迎えるかもしれないと、そう思っていたばかりに己を傷つけていくのだ。
Tweet

【思考】
こうなってしまうと、この失意が私のすべてを支配し始める。他にも安寧で多幸を感じることのできるものがあったとしても、私の思考は絶望を直視することを選択してしまう。
もしこの苦痛を回避できるのだとすれば、それは元から事象を軽く見ている場合に限られるだろう。だが多くの場合において、私を取り巻く事象は私にとって重大である。特に対人間の感情というのは、それだけでポジティブになったりネガティブになったりする。
今回の失恋に於いても、相手は感情的な支えであったし重大であった。他人を愛し、相手からも愛されるという幸福に甘んじて、その心地よいゆりかごを信用していたのだ。どのようなことにでも終わりは訪れるが、その最期は今回も悲痛な代物であった。少なくとも、私はそれを望んでなどいなかったことは確かである。
今思い出すのは、高校生の頃に永遠と己の内面にある地獄と向き合っていたことである。他の記事でも記述したことがあったが、高校生の3年間は鬱蒼とした内面の中に囚われ続けていた。その時に味わった無間地獄と言えるような失望の螺旋階段を、今も歩いている。
そのスパイラルから抜け出すには、環境が強制的に変化することが一番手っ取り早い。しかし、今回の場合は高校生の頃と同様にはいかず、環境の著しい変化は望めない。ネット上の交流で発生した問題であるため、インターネットを主体に活動している限り変化はないのである。
常に、この苦痛を思い出し続けるだろう。過去の苦痛でさえ、癒えた後もその尾を引きずり私の思考にその鱗片を残している。いつでも、その姿を現せるように待っているかのようだ。
それ自体は仕方のないことなのだが、しばらくは己の中に感情の牢獄を強く感じることだろう。解放されることがない、という自覚があるか否かは生存のしやすさに直結している。この世のすべてを自覚することは苦しみを生むのである。
しかし、それに対抗して無感情を徹底しようとすれば、苦痛から解放されたいという切望が主張を強くする。つまり、眼前にある感情から目を逸らす技術を持ち合わせていないのである。
どうしても直面したあらゆるものに対して、全身でぶつかってしまうらしい。意識を逸らそうとするほどに、悲哀の影は濃くなっていく。そして「お前の本心はこれだ」と、その姿を見せつけてくるのである。
これだけの時間を生に費やしても、得られるものの多くは苦痛である。もちろんそれだけとは言わないが、私に強く刻まれる記憶は生き地獄を自覚させるものが多い。
元々生存は地獄であると分かってはいるが、普段からそれを意識し続けていたら身が持たない。だから少しでも幸せを覚えるような感情に傾倒していたいのに、それが私には許されないようだ。
これが「私」という存在に課せられた業だろうか。
Tweet

【結論】
今はこの生存という名の苦痛に囚われる他にない。精々できることと言えば、苦痛に対して鈍感になれるよう願うくらいである。私という存在がある限り、今回生じた感情が潰えることはないだろう。
もし多少でも癒えるのであれば、同じジャンルの幸福を得たときに他ならない。他の幸福では、気を紛らわせることこそできても、穴埋めはできない。他の幸福が山となっても、その空洞は私を貫いて存在し続けるのだ。
できることなら、都合よく記憶を抹消したいなどという無意味な思考さえ働く。私の苦痛は未だ道半ばであり、生を受けたという拷問には終わりが見えない。
生を全うすれば地獄、死の苦痛を帯びるのも地獄。渇望するものは手に入らず、望めば望むほどに否定が私を刺し貫く。
いつ終わるのかと考えることすら苦痛を生み、自己嫌悪と自己憐憫の渦中に引きずり込まれる。私を救う存在などいないのだと自覚しようとすれば、その事実を拒絶したい軟弱さが自分の首を絞める。
潜在的な孤独に耐えうる防壁は未だ築かれず、失意は負の感情を呼び起こし、他にある幸福を覆い隠していく。そして私が真に求める安寧な死は、与えられるかどうかも分からない。
いずれこの感情が風化するときが来るのかすら、現状では想像もつかない。未来に思いを馳せる余裕もなく、今、この瞬間が、苦痛なのである。
ここまで読んでくださったあなたに、心からお礼申し上げます。
コメント